それどころじゃないけど展示
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あいちトリエンナーレ共催事業で七ツ寺共同スタジオにて個展しました。
たくさんの方々にご協力いただきました。
ありがとうございました。
[こめのゆめ]
[こめのゆめ]は、さまざまな場所のさまざまな人が食べ残したご飯粒を絹糸につないで作品を作るという、個人による美術プロジェクトです。
個人の家や店舗で残ったご飯を持参していただいたりその場に行ったりして集めたご飯粒を絹糸に通し、乾かしたものを素材にします。乾くと白く半透明になり、光を柔らかく反射させる米粒の性質と、粒の重さで出来る糸の曲線の面白さを生かし、展示する場所の個性が際立つようにその糸を張ります。
(コンセプト)
私は10年ほど前から小さな田んぼを借りて米を作っていて、米を大切に思います。
主食として大切なご飯は残りご飯になると捨てられます。ごみになる瞬間。そのことを意識しました。
一方、日本では古くから米は食物としてだけでなく、糊などとして環境に使用されてきました。食べ物としてだけでなく見ると、炊いたご飯粒が乾くと繊細な色を持って輝き、絹糸に通してつなげると曲線にたわむことがきれいだと思います。その糸がたくさん集まって部屋に飾られるのを思うと、嬉しくてどきどきします。米の糸を展示したところを見た人は最初に、綺麗なガラスやビーズだと思い、そして米粒だと知るともう一度じっくり見てくれます。第一印象の美しさと本来の機能(食べ物)のギャップに魅力があります。
「場」としての七つ寺共同スタジオの意味
七ツ寺共同スタジオは、繰り返し黒いつや消しペンキが塗られた窓の無い完全に真っ暗な劇場空間ですが、演者のパフォーマンスを際立たせる場として様々に彩られます。いつもは人が出演する舞台で、今回の主役は米粒です。
生過程とは「成長」と「生殖」の位相交替のはてしなく続く、ひとつの波形として描き出すことが出来る。この典型として、複位核の無性世代と単位核の有性世代の互いに交替する、かの陰花植物のみごとな生の波がしばしば引用されるのであるが、この「食と性」の営みが植物と動物の間でいちじるしく異なった形をとって行なわれることはあらためて言うまでもない。すなわち、合成能力の備わった植物が植わったままで、生を営むのに対し、この能力に”欠”けた動物は、”動”き廻って草木の実りを求めることになる。この文字通り”欲動”的な生きものの動物に「運動と感覚」という双極の機能が、光合成の代償として備わったことは、これまた自然のなりゆきと言わねばならないであろう。-人間生命の誕生「三木成夫」-
植物は動かず静かに眠っているように見えますが、そこでは延々と生が営まれています。人間が筋肉のある身体を使って様々な感覚を表現することが象徴的な「舞台」という場に、米を展示する意味を見出し、「種の夢」を表現しようと考えました。
こめのゆめプロジェクトとの関わり
地元在住の名古屋市中区高齢者はつらつクラブの皆さんに残りご飯の提供と米糸作りを協力いただきました。合計100名以上。ご飯粒約25万粒。長さ約3000メートル。
参加してくださった方の名前を書いたものを入り口に展示。
米山和子
「ちがう」とロバートが反論した。「この結論は、ぼくにはまだまだ反論の余地があるように思えるよ。君は全く同じ論法で次のように言えるだろう。全ての生命を持った物は原子から成り立っているのだから、原子もこれらの生物と全く同じように生きていると。だけど、これは明らかにナンセンスだね。たくさんの原子が複合されてもっと大きな構造物になり、そうなってはじめて、そのような構造物あるいは物を特徴づけるような性質だとか、特性だとかいったものが与えられるのだ。」 -「部分と全体」 W.ハイゼンベルク -
人の霊は
水にも似たるかな。
空より来たり、
空へ昇る。
再びくだっては
大地にもどり、
永久に変わりてやまず。
(ゲーテ「水上の精の歌」一七七九年一〇月作詩、から高橋健二訳)
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2009.7.25~9.23(伊丹市立美術館)
7.18~9.13(はるひ美術館)
「キタイギタイ」
生きもののかたち服のかたち
のポスターは、ポスターで使ってから、また使えます。
布で出来ているので、ポスターで使った後は仕付け糸を取って、スカーフや手ぬぐいとしてずっと使える。
プリントはヒビのコヅエさんらしく素敵なデザイン。
地色の白をちょっぴり残して、とっても効果的に使っているし、絵の線も巧いけれど巧すぎないように調整して、モダンとクラシックの中間の空間にちょうちょと虫が飛んでいる。
学内に貼って、展覧会期間が過ぎたら、
作業つなぎの頭に巻いて使わせていただきます、ポスター。
ちなみに作業つなぎのポーズは しぇー です。
洗おうと思って持ってきたつなぎ、汚くてごめんあそばせなのだ。でもつなぎはこれでいいのだ。
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こめ の ゆめ展 の搬入。
ショップでの搬入なので、定休日の一日でいっきに終わらせるため、10時半から私が一人で先に始め、学生達は授業が終わる3時過ぎから合流。
ご飯つきの糸は、絡んでいた!
一本ずつ絡んでいるのを解きながら、天井や窓に付けていく、めまいのする作業。
そして窓のところでは数十本の絡み糸が出現してしまった!
「千と千尋」に出てきそうな塊の米。
10センチほどの絡んだ糸の中には絶対何かいそうだった。
徹夜だと思っていたが、塊はバチスタ手術をして、どうにか済ませた。
夜10時半に終わったー。
さすが、14~5人いると作業が早い。
今回、接着剤はすべてご飯粒。
終わったら全て水できれいになりますです。
これは環境にやさしいかも。
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今日は仕事が終わってから、小島久弥さんのLギャラリーに行った。
ベロニカ・ドバース Veronika Dobers 展。
もう会期は終了していたが、見せてもらえてラッキーだった。
ギャラリーに入った印象は「緑色の静かなガラスに閉じ込めた何か」という予感。
一見静かな気がするのは、ガラス絵という手法で平面ガラスの裏側に描画するから、表面は均一なガラス質のせいなのか。
描かれたモチーフも人や植物や滴(しずく)や木や藁のようなシンプルで自然なものだからか。
いーや、このベロニカさんは確信犯だ。
本当は超過激で、超哲学的でいながら、ちょーユーモアがあるために、自然で象徴的なモチーフをガラスの裏に閉じ込めてなぞかけしているんでしょう。
静かなふりしてー。
なんちゃって、こうやって勝手に深読みしてしたりがおしていると「なんにもないっすよー」と日本語で答えてくれたりして。逆に。
何気なく緑色のガラスに描画していると思っていた私に、スタッフのOさんが「透明なガラスの裏(絵と同じ所)にこのうす緑色は塗られてるんですよ」と教えてくれた。
まいりました。
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つぎは染織の工房と教室の欅舎さん。
名都美術館から徒歩5分。大通りから一本入ったら静かな住宅地。
わかるかなと思ったが、近くに行くと可愛い緑色の家と欅舎の看板が目に飛び込んできた。
こじんまりした可愛い玄関から中にお邪魔すると、穏やかな声の女性と色とりどりのマフラーが出迎えてくれた。
ふと部屋の奥に目を移すと、整然と織り機が並ぶ工房が・・・・。
わーっと思わず奥の部屋にお邪魔すると、もっと声を上げたくなる光景が待っていた。
天井から隙間なく吊り下げられた手染めの糸の束、また束。その数、色とも「ハンパない」
糸を染め、布を織りながら、その染めた糸を保管する為に思いついて天井に吊るし始めたのだそう。
20年以上という月日の中で染められた糸は工房の天井を全て覆っていて、上を向くと色とりどりに美しい、柔らかい天井だった。
使い込まれた織り機や染めに使う水場は人肌のように馴染んだ温かさがあった。
ここで織られた布たちは今も、色々なところで色々な人たちに使われているのだろうなあ。
少しずつ少しずつ長くなって布になる。出来上がって織り機から外されて、また新しい布が少しずつ少しずつ織られていく。淡々と続くように見える手織りの中に、いつも何かが織り込まれていくんだろう。
どんなものが織り込まれているのですか?
絵も描かれるという欅舎さん。この糸達のように沢山の色の絵の具が乗せられた、温かな絵なのかな。
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さて次はご夫婦共に画家のお住まいアトリエ・パルチャへ。
この一帯は昔からの大きな民家が建ち並び、その中に若い世代の建て替えらしい洋館がぽつぽつ増えてきている、長久手の歴史を感じる住宅地。
ご夫婦というか仲の良い友達といった印象の赤塚夫妻は、大きな古い民家を住居、アトリエ、絵画教室になさっている。
古い日本家屋や塗り重ねたペンキにある温かみの中に、油絵のモチーフらしい洋風のガラスや金属や土物が深い色を持ち、教室の子供達が作ったり描いた作品が明るい色彩で貼られている様子の絵画教室にのんびり猫が歩いていて、懐かしくて優しい気持ちになりました。
でも優しいだけではないある種の空気。
奥様の赤塚雅代さんの作品の持つ空気感や木版の肌触り。
多彩で明るく美しい色彩の下に重層的な深みを感じる赤塚一三氏の作品の空気感。
その赤塚氏はすぐ今月末に控えた個展の作品をアトリエで制作されていた。
ながくてアートフェスティバルの嬉しいところは、こういった普段なかなか拝見できない作家のアトリエやご自宅を気楽に訪問出来ちゃうところだが、それはひるがえると本当に作家ご自身のご好意あってなのだ、とあらためて感じた。
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